ボランタリズム

 多義的概念であり、しばしば混乱して使われる。哲学用語のvoluntarismとしては、「人間の意志を世界や個人において、根本的で支配的な原理や要素とみなす理論や主義」(Oxford English Dictionary2020)として使われる。たとえば、古くはAugustinus, A.( アウグスティヌス)における「神の国」への意志から、Kant, I. (カント)における人格の本質としての自由な道徳的意志、Tönnies, F.(テンニース)の意志類型に基づくゲゼルシャフトとゲマインシャフトの区別、Nietzsche,F. W. (ニーチェ)の「力への意志」に至るまで、実に多様な主張において検出できる。非営利社会活動との関係では、以下の用法が重要である。第1に、キリスト教史のなかではvoluntarismもvoluntaryismも、礼拝(形式)や教育の内容や方法を国教会や国家の統制から擁護し、国家からではなく自発的寄付によって維持されるべきとする主張として使われる。第2に、自発的行動や原理に基づく社会制度や社会運動の主張として使われる。徴兵に対して義勇兵を重視するvolunteerism、労働の徴用に反対するという文脈でのvoluntaryism、政治活動や労働組合活動において国家規制よりも組合等による交渉や闘争の結果を重視するvoluntarism,voluntaryismなどもある。第3に、おもに社会福祉領域において、自発的活動や組織を組み込むことを意味するボランタリズム(voluntarism, volunteerism)があり、さらに広く非営利社会行動論の文脈においては、市民社会全体の価値・思想も表現する(Dennis L.Poole ‘Voluntarism’, Encyclopedia of SocialWork, National Association of Social Workersand Oxford University Press)。どのような意味・文脈かによって、ボランタリズムの社会的・歴史的意義は大きく異なる。一般には、自発性に対置されるのは外部からの強制や決定であり、それをもたらすものへの警戒と拒否である。非営利社会行動においては、第1に、とりわけ国家との関係が問題化される。国家による正統的思想や宗教・礼拝様式の強制や、何らかの目的の実現のための国家動員は、基本的にボランタリズムと相容れない。同様に、企業の業務命令による「ボランティア」もボランタリズムとは相容れない。しかし、ボランティアや非営利組織が取り組む社会課題解決のためのコストは、活動対象となる社会的弱者から調達することは困難であり、寄付や民間助成による資源調達も持続性の点では十分ではないことが多い。国家からの資源調達(助成等)や国家の規制権限の利用などは、公益的な非営利社会活動にとって一般的である。しかし、資源の外部依存は介入の手段を与える。規制への依存は自発的な解決の選択肢を狭める可能性もある。ここから、ボランタリズムの主張は、一方で、アナキズム、つまり国家を極小化しようとする自発的社会秩序のユートピア主義に結びつく。この傾向は、市場原理主義としてのアナルコ・キャピタリズムなどのいわゆるネオリベラリズムとも親和的である。他方、国家助成を含めて多様な財務基盤や解決手法をもつことで、独立性を高め、ボランタリズムを強固にする可能性を目指す場合もある。
 第2に、広い自発的な市民参加の理念は、ボランティアに関して、職務として業務を担う有給職員や専門家による支配との関係でも問題となる。有給職員や少数の資格保持ボランティアによる業務遂行は能率的持続的なサービス提供をもたらす(たとえば、震災の緊急支援等)が、サービス受給者の自治や(単なる手足ではない)実質的な参加を欠いたり幅広い市民的能力の向上を視野に入れない活動はNPOとしての活力を失わせることもある。ボランタリズムは、市民社会セクターの他セクター間の問題としても、非営利組織の内部問題としても、つねに核心的な争点とかかわる。「身を労するかわりに、金を出してみるがよい。やがて諸君の手には鉄鎖が返ってくるであろう。/本当に自由な国では、市民たちは万事自分の手で行い、なに一つ金ずくではすまさない。」(『社会契約論』)とRousseue,J-J.( ルソー)は喝破した。ボランタリズムは、自由への人間の永遠の希求と相即不離である。
(岡本仁宏)