橋の哲学

 昭和42(1967)年に対話重視の都政を掲げ東京都知事に当選した美濃部亮吉が、対話からすすめて参加の都政を呼びかける際に用いた考え方である。アルジェリア戦線の指導者であるFanon, F. M. (ファノン)の言葉から一部改変して引用した(『地に呪われたる者』[日本語版1968年、みすず書房新装版2015年])。美濃部自身は「橋1つ造られるにしても、その橋の建設が、そこに住む多くの人々の合意がえられないならば、橋は建設されないほうがよい。」(昭和46[1971]年6月30日東京都議会)と述べ、多数決の論理に従うべきことを意図していた。しかし、「1人でも反対する者がいたら建設しない。」と発言したと曲解され伝わる。豊島区から練馬区に至る放射第36号線道路の建設にあたっては、当時まだ実施例のなかった住民投票が提案されたように、美濃部には新しい参加の方式と民主主義的な合意手続きへの指向があった。しかし、革新政権そのものへの反発に起因し、これを支持しない勢力が攻撃材料とするだけでなく、個別の公共施設建設についての反対派が少数意見の絶対的尊重を強調して援護材料として用いたことが曲解の背景にある。美濃部の発言は、「人々は今までどおり、泳ぐか渡し船で川を渡ればよい……この考え方には明らかに住民自治の理念と住民参加の姿勢のあり方が述べられております。」と続き、多数決の論理を超えた、広範な自治と参加の理念を込めたものであった。住民投票や環境影響評価制度の提案など先駆的な政策の意図がかすむ一方、今日では革新政権下で都市建設が停滞したという意図で引かれることもある。革新都政の評価にかかわる対立の構図のなかで言及されたものである。
(勝田美穂)