市民

 日本国の法令では、「市民」には、市民緑地(都市緑地法等)、市民農園(食料・農業・農村基本法、都市農業振興基本法、市民農園整備促進法等)、市民ラジオ(無線設備規則等)、市民生活(警察法他)、市民権(出入国管理及び難民認定法)さらに消費者市民社会(消費者教育の推進に関する法律)、市民活動(内閣府設置法等)等の語句の一部をなすものとしての用例があるが、独立して使われる場合は、①特活法における「市民が行う自由な社会貢献」(同法1)、「広く市民から支援を受けているかどうかを判断するための基準」(同法45)、「特定非営利活動への市民の参画を促進する。」(同法72)と、関連する内閣府設置法および租特法等の用例、②成年後見制度の利用の促進に関する法律において「市民の中から成年後見人等の候補者を育成しその活用を図る。」とされている用例、③地域警察運営規則(昭和44年国家公安委員会規則第5号)第2条「市民の日常生活」「市民に対する積極的な奉仕を行い、市民との良好な関係を保持する。」「市民に対する応援」、第19条「市民に対する保護、助言および指導」の用例、がある。また、地方自治法による普通地方公共団体の構成員としての慣例的用法があり、条例において「市民」という用語が使われる。とりわけ市の場合には市民は使われやすいが、市にかぎらず使われる場合もある。なお、自治法10の「住民」には外国人も含まれるが、在勤者等を広い意味で市民とみなす条例も存在している。法令における市民概念は、個々の自治基本条例のような場合を除いて定義づけられていない。  法律用語ではない市民(citizen)概念は、民主主義と深い結びつきをもつ。これは古代ギリシャ以来の政治思想上の伝統に基づく。もともとポリスの正式構成員としての市民(polites)は、裁判(krisis)と公職(arche)に参与する権利をもつ(『政治学』)。ポリスには、女性や子供、奴隷もいたしAristotelēs(アリストテレス)のような在留外国人も住んでいたが、市民ではなかった。つまり、市民とは国政に参与する権利を十全にもつ者の資格なのである。  時を下って、Rousseau,J-J.(ルソー)が、「集団的には人民、個別的に主権に参与するものとしては市民、国家の法に服するものとしては臣民」(『社会契約論』)として概念を整理したのも、この伝統に基づく。ローマは、共和国市民の統治を正統原理とし、植民都市の住民に市民権付与を同化と支配の手段とした。現在でも、たとえばアメリカで国籍をとることは、市民権(citizenship)をもつことであって、たんにサービス受給権をえるのとは異なって、国の統治にも参与できる主権者の一員としての権利をえることである。一般に、国家においては、その正式成員になる(である)条件(国籍取得条件 citizenshipの獲得要件)は、法令によって定められる。出生に関する条件(血統、または出生地)、能力的な条件(言語や統治システムについての知識要件、経済的要件等)、その他(犯罪歴等によるネガティブ条件や宗教等)が各国の国籍法制によって定められる。しかし、特に非営利社会活動においては、国民としての権利・義務とは異なる水準で、市民概念は用いられる。古代民主主義は、民会での公論参加や投票等による意思決定主体としてのみならず、自ら裁判官の役や戦士やその他の公務を担う、つまり公務の決定のみならず執行をも担うことを意味した。この伝統は、たんに投票や政治運動のみならず、行政職員でなくても公共の仕事の遂行に関与するという、現代における市民概念の特質として継承されている。Tocgueville,A.(トクヴィル)は、自分たちの社会を自分たちのものだと思う「所有の精神」(esprit de propriété)がなく、「公徳の源泉が涸れ果て」れば、「臣民はまだいるが、市民はもはやどこにも見出されない。」とした(井伊玄太郎訳『アメリカの民主政治』講談社学術文庫)。現代において市民概念が頻繁に用いられる市民運動や市民活動等の用例や特活法における市民概念も、公務の決定・執行をも自発的能動的に担う民主主義の主体としての市民概念の伝統内にある。国際的な政治共同体のように、まだ統一的統治機構をもたない場合でも、そのガバナンスの担い手としての自覚をもち、その公益遂行を担おうとする者を地球市民と呼ぶのも同様である。市民とは、自由に生きるために自分たちのことを自分たちで決め遂行する主体であり、あろうとする存在なのである。
(岡本仁宏)