協同

 人々や組織がともに心と力を合わせて物事に取り組む営みである。今日では、同じく「キョウドウ」と発音されるものとして、「共同」、「協同」、「協働」がある。これらは社会的紐帯という意味では一定の共通性を有しつつ、その含意は異なる。社会学では、近代化の過程で「共同」と「協同」の関係が論じられてきた。特に、急速に都市化がすすみ、地域社会(コミュニティ)の中核的要素である社会的紐帯が変化するなかで、血縁・地縁的な関係に基づく自生的・自然発生的に形成されたムラ的な埋め込まれた結びつきとしての「共同」に対して、共通の問題解決に取り組むための自由意志に基づいた繋がりを「協同」として捉えた。産業革命期には、競争を基本原理とする資本主義を否定し、協同を基本原理に据えた社会改革を唱えた人々(オウエン主義者・フーリエ主義者など)によって、新しい社会制度の創造を目指したユートピア的な協同体主義が登場した。その思想に基づく協同は、とりわけ競争の対立的概念として定置されていた。歴史的にみると、近代以前では、(共有資産に基づく)共同体の構成員はあくまでも一構成分子にすぎず、そこでの社会的人間関係は相互依存関係をあらわす「共同」といえる。近代化の過程では、やがて共同体内部における分業・協業の登場によって同質性を基本的特質とする共同体内外の異質性が顕在化する。この段階での社会的人間関係は、封建的システムの規定性から解放された人格的自立を前提とする諸個人間の「協同」である。共同が地縁的な組織を基盤としたものであるとすれば、自立した個人からなる協同は、特定の課題解決や志を同じくする者たちによって意識的につくられた志縁的組織の基盤となる社会的紐帯の形といえる。 現代社会では、地縁的な人間関係が希薄化しているなかで、共通の目的に向かって力を合わせるために組織化する活動としての協同の重要性はますます高まっているといえる。ただし、協同はあくまでも自立した個人による結びつきであるがゆえ、構成員の同質性を無条件の前提とするのではなく、むしろ、利害関係者間の違いや対立が浮き立つ場であるという理解(協同の矛盾論的把握)が肝要である。この「協同の矛盾」の根底には、社会的・経済的諸要因に絶えず影響を受けながら形づくられる現代的対抗構造のなかで、「私的個人」と「社会的個人」の狭間で揺れ動いている現代的市民の矛盾(主体の矛盾)がある。それは、協同活動を実質化するうえで避けることのできない課題であるが、逆説的にいえば、この矛盾を直視し自らの構造に内面化する対話的協同の試みのなかにこそ、その矛盾を止揚する主体的契機が内包されているといえる。なお、1990年代以降の福祉国家再編過程において、自治体レベルで策定される「協働条例」などを典型として、行政と市民社会組織の協力関係を「協働」と称することが一般化している。しかし、本来「協働」は、特定の団体間の組織的な塊ではなく、異質な他者を含む多様なアクターが違いを乗り越えてともに活動する行為を通して社会的ニーズに応えるための相互自助(mutual self-help)をベースとした実際的な活動を意味する。共同と協同の併存関係のみならず、非営利法人研究の未来を見据えた共同・協同・協働の相互扶助的な関係の構築に向けた実践的論理の解明が今まさに求められているといえる。
(大高研道)